時政らの野望を政子・義時が阻止した「牧の方事件」【後編】
鎌倉殿の「大粛清」劇⑮
矛盾する朝雅の最期。射殺されたのか自害だったのか?
取るに足らない人物であれば、勝手に名前を使われただけと白を切り通すことで、出家と隠居の処分で済まされたかもしれないが、三日平氏の乱の平定で鮮やかな武功を挙げた事実があっては、助命が容認される可能性はゼロに近かった。
『吾妻鏡』によれば、北条時政が伊豆国へ下向したのと同じ閏7月20日、北条義時は中原(大江)広元、三善康信、安達景盛らと審議を行ったうえで、都へ向けた使者を出立させている。在京御家人たちに平賀朝雅の誅殺を命じるためである。
朝雅の最期については、例によって『吾妻鏡』と『愚管抄』では細部に相違がある。
まず『吾妻鏡』から見れば、在京御家人たちが行動を起こした同月26日、平賀朝雅は後鳥羽院の仙洞御所で催された囲碁の会に出席。まだ対局中のところへ、小舎人の童がお使いとして急を知らせた。
朝雅は驚きも慌てもせず、後鳥羽院にきちんと事情を説明し、退出の挨拶もしてから、六角東洞院にある宿所に戻った。
それを見計らったかのように、藤原有範、後藤基清、安達親長、佐々木広綱、佐々木高重ら在京御家人たちが攻め寄せた。朝雅はしばらく持ちこたえた後、急に取り乱したかのように逃げに転じた。
近江国へと抜ける道を走るが、峠に差し掛かったあたりで金持広親(かもなもちひろちか)や佐々木盛綱に迫られ、最後は山内持寿丸(やまのうちじじゅまる/のちの通基)によって射殺された。この山内持寿丸は平賀朝雅に伊賀国守護職を奪われる形となった山内首藤経俊の六男だった。
一方の『愚管抄』では、鎌倉幕府からの命令は在京御家人たちに伝えられると同時に、後鳥羽院にも奏上され、そのとき朝雅は六角東洞院の宿所にいた。
朝雅は宿所を包囲する在京御家人たち相手にしばらく応戦した後、建物に火を放った。打って出て、大津方面に落ちていくが、実のところ在京御家人の大半は朝雅を殺すに忍びなく、わざと退路を開け、朝雅を落延びさせようとしていた。
しかし、全員が同じ考えていたわけではなく、しつこく追撃する者もいたので、朝雅は山科(やましな)まで逃げたところで観念したか、みずから命を絶ってしまった。
討ち取られたのと自害のどちらが真実にせよ、朝雅が死去したことに変わりはなく、ここに北条時政と牧の方の一党は完全に滅ぼされた。
朝雅の実兄・大内惟義(おおうちこれよし)は健在だったが、惟義は御家人でなく、後鳥羽院直属の京武者であったことから、類が及ぶことはなかった。
監修・文/島崎晋
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